由緒と歴史

宝林寺の創建

宝林寺の創建は、根崎村の成立と大きな関わりがあります。碧海台地の南端に位置するこの地は、もともと東端村の一部でしたが、正保元年(1644)近くを流れる矢作川に鷲塚まで続く堤が築かれたことを契機に、多くの入植者が入り水田造成をすすめました。友国村(現西尾市)、西端村(現碧南市)、和泉村から多くの移住者があり慶安3年(1650)に根崎村として独立しました。

友国村出身の鈴木清太夫は、新しい村づくりのため、文化施設も何もないこの地に、開拓民の心の依り所として寺院を開設することが何よりの急務だと考えました。そこで周囲を説得し寺院創建の運動を展開しましたが、志半ばで死去。父の意を承けた長子が運動を受け継ぎ、承応2年(1653)東本願寺から許可を得て宝林寺を創建しました。開基は釋浄信です。(参考資料 『明治村史』) 

大浜騒動(鷲塚騒動)

【護法一揆】
明治3年から6年の間に、明治新政府による廃仏毀釈・神道国教化の動きに対して、仏教の僧侶・信者の間でこれに抵抗する動きが各地で発生しました。多くは真宗大谷派(東本願寺)の僧侶・門徒が関係していましたが、これを護法一揆といいます。未遂も含めて新潟、福井など全国で10件ほどの護法一揆が記録に残っています。その一つが明治4年(1871 )、根崎町のとなり、現在の碧南市鷲塚・大浜を舞台に起こった事件を大浜騒動(鷲塚騒動)といいます。

【事件のあらまし】
政府の宗教政策を具体化するとして、この地区を治めていた菊間藩の役人が、管轄の各宗派寺院に対して寺院の統廃合などを求めました。これに反対した三河護法会(総監 専修坊 星川法沢)の若手僧侶らが役人と直談判するため、役場に向かいました。途中、騒ぎを聞きつけた門徒の農民たちも加わり大集団となって会見場へ向かいました。しかし話し合いは不調となり苛立った人々は集団心理もあって暴徒化し、結果的に藩の役人を殺害するという最悪の事態に発展してしまいます。
その後、武装した役人に暴徒は鎮圧され、僧侶・門徒ら数百名が捕らえられました。後に行われた裁判の結果、この事件の主導的役割を果たしたとみなされた蓮泉寺 石川台嶺と、役人の殺害に直接関わったとされた門徒の榊原喜代七が死罪。その他多くの僧侶らが徒刑に処せられ、そのうち4名は獄死してしまいました。この事件に加わっていた当山の12世住職 鈴木抱慧(当時22歳)も1年半の徒刑に処せられましたが、のちに釈放されました。抱慧は専修坊 星川法沢の義弟にあたります。

【事件の影響】
その後、護法一揆の続発を憂慮した政府は、強硬な宗教政策の転換を迫られたということです。また大谷派宗門内においては、騒動に直接関わっていない僧侶らから、事件に関わった僧侶らを擁護しなかった本山への批判の声が次第に大きくなり、後に清澤満之らがすすめた宗門改革運動へ繋がっていったともいわれています。

「しばやんの日々」という歴史をテーマにしたブログに、大浜騒動について詳しく書かれています。他にも廃仏毀釈の当時の様子がわかる記事が数本掲載されているので、興味のある方はご覧ください。

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当山12世住職 鈴木抱惠
鷲塚騒動について寺報にまとめたものです。

三河地震

【終戦期の巨大地震】
あまり語られていませんが、日本では終戦期の昭和20年前後に1,000名以上の死者を出した巨大地震が4年連続で起こっています。そのうち、この地域に大きな被害をもたらしたのは昭和19年(1944)12月7日の昭和東南海地震(地震規模M7.9)と、そのわずか37日後の昭和20年(1945)1月13日に起きた三河地震(M7.1)です。

戦時中ということで、敵に弱みを見せないため、また国民の士気の低下をおそれた政府は報道管制をしいたので、現在でも正確な被災の規模はわかっていませんが、三河地震では2,300名を越える死者が出たといわれています。また現在では当たり前となった被災地への復興支援なども、ほとんどされませんでした。


【この地域の被害】
宝林寺の過去帳を見てみると、13名の檀徒がこの時亡くなったと記録されています。このうち2名は当時小学1年生だった当山の前住職(釋乘白)の母と姉でした。
現在、岡崎教区第15組は13ヶ寺ですが、以下の8ヶ寺の本堂が三河地震で倒壊しています。
宝林寺(根崎)、城泉寺(城ヶ入)、隨厳寺(南中根)、本龍寺(和泉)、信照寺(榎前)、念空寺(東端)、正林寺(吉浜)、寿覚寺(吉浜) 

特に吉浜の2ヶ寺は、名古屋からの疎開児童を受け入れていました。地震の発生した時刻が午前3時すぎだったため、多くの子どもたちと付き添いの先生が建物の下敷きとなって亡くなったそうです。

外部リンク:「三河地震 消されかけた直下型地震」(作成 名古屋大学災害対策室)
名古屋大学の資料では、根崎を含む旧明治村で325名の死者が出たとされています。

伽藍の再建の歩み

宝林寺だけでなく、根崎村を含む旧明治村は、三河地震により壊滅的な打撃を受けました。檀徒の皆さんは、戦後の物資のない状況の中、お互い協力し合って生活の立て直しに努めました。そのような事情もあって宝林寺の伽藍の再建には多くの時間を要しました。

外部リンク:旧糟谷邸 
【玄 関】 現存する建物の中で、三河地震以前より残っているのは、玄関と書院だけとなりました。
【書 院】 大正6年(1917)に厳修された、当山の親鸞聖人650回忌に合わせて、旧糟谷邸(西尾市吉良)より移築されたそうです。旧本堂が倒れた後は、仮本堂として使われていました。
【書院の廊下の天井】 現在は、老朽化のため普段は使用されていませんが、材木などは良いものが使われているそうです。

本堂の再建

昭和50年。壇信徒の悲願であった本堂が再建され、落慶法要が営まれました。本堂の再建には、三河地震から30年という時間が必要でした。当時、私はまだ6歳でしたが、稚児行列などの様子は記憶に残っています。
宝林寺の本堂もそうですが、同じ時期に建てられた他のお寺の本堂の多くは、地震に強いということで鉄筋コンクリート造りで建てられました。
現在の本堂。
内陣の様子。
ご本尊 阿弥陀如来。大浜騒動も三河地震も、ずっと見守り続けてきました。
大間に掲げられた清澤満之のことば。本堂の役割は念仏の道場であることを示しています。

お非時場(ひじば)の完成

お寺にとって、本堂、庫裡に続いて必要な施設は、大勢の人のお斎(とき)を提供するお非時場です。行事や法要の時、数十名分の食事を用意し、一度に食べることができる施設はとても重要です。本堂の再建の数年後、同じところに建っていた旧お非時の建て替えをおこないました。
この建物は新築ではなく、現在の根崎町内会のところにあった、村の結婚式場として使われていた建物を移築してきたものだそうです。書院にしてもそうですが、昔の人の技術力と、ものを大事にする精神には驚嘆すべきものがあります。
中庭から見たお非時場。
報恩講などのお斎だけでなく、お寺で法事を勤められた後の、お斎会場としても使われています。

鐘楼門(しょうろうもん)の再建

宝林寺の伽藍の中でも、ひときわ目を引くのが本堂の正面に建つ鐘楼門です。昭和59年に築地塀とともに完成しました、以前の鐘楼(鐘撞き堂)は、今は水屋となって境内に残っています。
この鐘楼門は、当時の責任役員だった杉浦忠治氏の一寄進で、梵鐘(ぼんしょう)は檀徒に広く寄進を呼び掛け完成しました。
宝林寺は、三河地震以前も鐘楼門がありました。
毎朝の他に、法要の前や、年末には除夜の鐘も撞きます。
梵鐘の内側には、寄進者の名前が刻まれています。

庫裡(くり)の再建

平成12年(2000)。庫裡が完成し落慶法要を厳修することができました。檀徒の皆さまのご支援により、三河地震から数えて55年をかけて寺の機能を少しずつ充実させることができました。
庫裡1階の大広間にはご本尊を安置し、数十名規模の法要を営むことができるようになっています。冷暖房、椅子も完備しており、檀徒の皆さまには、年忌法事の会場として使っていただけるようになっています。

こうして寺の歴史を振り返ってみると、350年ほどの間に様々なできごとがあり、宝林寺にたずさわった一人一人にも、様々なドラマがあったであろうと想像します。先人達の思いを受け止め、混迷する現代社会において、お寺ならではの方法で地域社会に貢献できるよう努めて参りますので、これからもご協力のほどよろしくお願いいたします。   合掌
伝統的な日本建築の宝林寺の庫裡。
椅子席なので、足の痛い方でも安心してお参りいただけます。
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