四、念仏相続としての仏事(第五章を中心として)

1,追善供養としての仏事

大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】⑩

日本人は、仏事をつとめるという形で仏教を生活化している。しかしその仏事にはまったく意味を異にする二つの仏事の伝承がある。そのことがはっきりしたのは、法然上人が亡くなった後、「世間で行われている追善供養としての仏事は行う必要はない。どうしても仏事をつとめたいということであれば、報恩として念仏相続の仏事をつとめるように」と遺言されたことによる。

まず追善供養としての仏事のことである。それは源信僧都の当時より、浄土で再会しようと約束しあい、「私が浄土に往生したら皆さんを浄土に引接(いんじょう)しよう。もし悪趣へ落ちたら皆さんの力で私を助けてほしい」と念仏講を作ってお互いに念仏に親しみ、交わりを深め合っていた。そのためお互いに臨終がどうであったのかを過去帳に記録して、その死によう次第で追善の懇疎を決めていた。そのことが追善供養としての仏事を根付かせていく縁ともなっている。

そのこととも関係して、民間にも「十五仏事」といって七・七日(中陰)、百ヶ日、一年、三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年といった仏事が早くからつとめられるようになっている。その仏事は四有説により、実は偽経『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』を中心に意味づけられ、今日まで伝承されてきている。四有説とは、我々いのちある者の存在のしかたについて、生有(しょうう)・本有(ほんう)・死有(しう)・中有(ちゅうう)を説くものである。

生有とは、母胎に宿った命が、胎外に生まれ出る時をいう。本有とは、生まれた命が生きてやがて死にいたるまでの間をいう。死有とは、最期の息が切れる時をいう。中有とは、息が切れて、その死体を離れ出た霊魂が再び母胎に宿り、命を得るまでの間をいう。その中有の間を、七・七 四十九日といわれ、その間こそ死者が十王たちによって生前の罪業の軽重が裁断され、その転生していくべき生処が決定する間とされている。

その十王については、七・七日、百ヶ日、一年、三年、の十仏事にそれぞれ配当されている。死者は閻魔王(五七日)に代表される十王の元で、具体的に殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語などの罪業の軽重が裁断されるとされている。親鸞聖人の頃もそうであるが、覚如上人の当時、親鸞聖人の流れを汲む人たちが信心を問題にしないで没後葬礼のことばかりにかかり果てている事実があったようだ。(『改邪鈔』)

また逆に世間では、「念仏者たちは人が死んだ後どうなるのか、地獄のこと、浄土のことについて教えないのは邪見の極まりである」といった批判が事実あったようだ。そのように常に人の死にようとか死後のことが云々され、追善供養としての仏事が盛んに行われてきている。これらは全て十王経信仰を中心としたものである。

それを正面きって批判しているのは存覚上人の『至道鈔』である。そこでは「信心を得る時往生は定まるのであるから、信心の行者は十王の前に至るべきにあらず」といわれ、「地獄に落つる人と浄土に往生する人とは中有の位を経ず」と言い切られている。だから六道を輪廻し転生することはない。

しかし信心が問題になっていない人にとっては追善供養としての仏事は、結局のところ、日本人の持つ霊魂観、先祖観、他界観などと密接に関係しあいながら民間に習俗となって定着しているものであるから、無視すれば仲間はずれにされてしまう。我々も職分としての僧として、直接門徒の仏事に関わるわけである。現在でも無自覚的ではあるが、十王経信仰を前提とした追善供養が盛んに行われている。

その実態をよく知り、よく見極め、門徒の仏事として伝承されている報恩としての念仏相続としての仏事のあり方をよく知った上で、追善としての仏事の現場を、報恩としての仏事に転成していく大きな縁としていく責任がある。

《平成6年(1994年)6月20日》

2,報恩としての念仏相続の仏事

大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】⑪

法然上人の遺言をうけて、上人が亡くなられた後、形式的には世間の十五仏事の形をとりながら、それとはまったく異なる「報恩としての念仏相続としての仏事」がつとめられた。それは聖覚法印が、法然上人の六七日、「法然上人御仏事表白」を読み上げたことによってはっきりとした。そこで聖覚は、法然上人の御恩を、1,教主釈迦如来にも等しいとし、2,救主阿弥陀如来にも等しいと讃嘆している。さらにその御恩に、3,骨を粉にし、身を砕きてもこれに謝すべしとしながら、4,奉仕弥陀仏(弥陀仏に奉仕せん)とその決意を述べている。我々が恩徳讃として親しむ親鸞聖人の「如来大悲の恩徳」の和讃は、聖覚のこの表白を元にして作られたものである。

これらは、いつの・どこの・誰においてでも、如来の本願に遇い念仏申す身となって、助けられた時のその深い喜びと決意を示すものである。この私が“助けられた”ということは、「この私の全体を打ち込んでいけるような、そういう尊い仕事が見出せた、与えられた」そのことを言う。聖覚が「奉仕弥陀仏」と言い切った決意は、それこそ阿弥陀仏の、いつの・どこの・誰であろうと、その者をえらばず・きらわず・みすてずに、その者の悲喜を共にし、共に助かっていこうとする、その本願に感動し、その本願を実現しようとする阿弥陀如来の仕事に私も参加していこうという決意である。それは阿弥陀如来の本願を我が命として、我が本願として生きていこうという決意である。念仏相続とはそのことを言う。

今は亡き曽我量深先生は、親鸞聖人の遺弟の一人として、親鸞聖人の念仏相続の呼びかけを「信に死し、願に生きよ」と聞き、それに応えて「信に死し、願に生きん」と念仏者としての決意を述べられている。念仏相続とは、先に生まれる者と、後に生まれる者との間における、そういう呼びかけと応答を言う。だからそこには必ず、聖覚が表白したように喜びと決意とが伴うのである。そのことが報恩としての念仏相続の仏事をつとめることになる。

親鸞聖人の当時、念仏者の間には、「正月二十五日のお念仏」とか「二月九日のお念仏」等々があった。二十五日は法然上人の命日であり、九日は安楽房の命日である。安楽房は、念仏を謗(そし)り、念仏者を迫害する後鳥羽上皇に対して、「そのことを回心懺悔して念仏者となってほしい」と念仏を勧めて斬首されている。

実は念仏者のそれぞれの命日に、その者が「願こそ我が命」としていた、その願いを、それは結局は阿弥陀仏の本願であるのだが、その願を思い起こし、その願を一人ひとりが念仏者となって相続し、その者と共生共存しながら最後の一人が本願に遇い、念仏者となって助かるまで念仏を相続しようとお互いに確認し合いながら仏事がつとめられていた。

親鸞聖人の亡くなられた後は、二十八日のお念仏が申し合われた。それが報恩講として今日にいたるまで相続されている。しかし報恩講とは親鸞聖人に限るのではない。念仏に縁のあった人々の命日はすべて我々にとっては報恩講である。

そういう念仏相続の現場となる仏事が、具体的には門徒にとっての朝夕の勤行である。ご本尊の前での正信偈、念仏、和讃のこの勤行の場こそ、我々への「本願を信じ念仏申す者になれ。信に死し、願に生きよ」との先に生まれた者の呼びかけを聞く念仏相続の現場である。このことをよく知った上で、世俗化して追善としての仏事になっている仏事を、念仏相続としての仏事に回復していくよう、まず私から始めていくよう実験してみてほしい。 
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