大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】⑫
念仏者たちは、お互いに念仏しながら弥陀の浄土に心を寄せ、世間の中で同朋としての交わりを深める生活を始めた。その時、曖昧にできない問題があった。それは、1,神道(宗教) 2,王法(政治) 3,触穢(習俗) 4,霊(文化) 5,財(経済)の問題である。これらの問題に念仏者はどう関わることが出来るか、そのことが念仏者となっていけるかどうかにかかわる重大な問題である。
まず財(経済)の問題である。聖人の手紙を見ると、田舎の同朋たちが、聖人の元へ銭(金)を贈り届けていたことが分かる。手紙はその領収書で、それと同時に、田舎の同朋の問題に聖人が念仏の心を伝える言葉が記されている。それは僧伽(教団)における在家の行者の財施に対して法施の形を伝えている。注目すべきことは田舎の同朋から贈り届けられる銭を、聖人は必ず「御こころざしのもの」、「念仏のすすめのもの」として受け取られていることである。それは銭が単なる銭ではなく、田舎の同朋たちが厳しい生活の中でやっと手に入れた銭を、仏法のために差し出しているのであると、聖人に受け取られていたからである。
仏子勝鬘(しょうまん)は、仏法に遇い得た喜びを
我、摂受正法において身命財を捨てて正法を護持せん(『勝鬘経』)
という誓いとして示している。正法を受持した事のしるしとして、身命財を捨ててその正法を護持しようと誓っているのである。我々は誰でも身命財に愛着し続けている。その我々の愛着するものを捧げても良いと言える尊いもの、また、投げ出してでも実現したい、そういう尊い仕事が見出せた、それが仏法によって助けられたことになる。
聖人の教えを受け継ぐ同朋たちは後に、「一味和合契約のこと」といってお互いに災難に遭う時は、身命財を投げ出してでも助け合おうと約束し、またその約束を破る時はどのような罰を受けても良いと誓い合っている。このことが後に仏法護持のための一向一揆ともなっている。
田舎の同朋たちは、その銭を本願念仏の仏法が一切衆生に届けられ、そのことによって皆が助けられることを願って、聖人の元へ贈り届けられていた。だからこそ聖人は、それを「御こころざしのもの」、「念仏のすすめのもの」として受け取り、仏法相続のために生かし切られている。
我々は聖人を偉大な念仏者として個人崇拝しがちである。しかしそれは間違いである。聖人の背後に聖人を支え、励まし、立ち上がらせ、歩み続けさせた、多くの田舎の同朋たちが存在していることを忘れてはならない。『教行信証』等を読む時に、その一字一字に、その行間に、仏法のために身命財を投げ出した田舎の同朋たちが存在することを読み取ることがいちばん大事なことである。
聖人の当時、すでに「仏物」(ぶつもつ)・「僧物」(そうもつ)・「人物」(にんもつ)という思想が定着していた。『観経』には、下品中生者の罪として
僧祇物を偸み、現前僧物を盗み
が出されている。これらが僧物である。その僧物を偸盗(ちゅうとう)することは、それを私有化することである。結局は、自分自身の欲望を満たすために、それを利用することである。その罪が堕地獄の罪として取り上げられている。
私は少年時代に、小遣いがなくなると、本堂へ入って門徒の人々の寄進されている銭を懇志箱から盗んだことがある。後に『往生要集』を読んだ時に、阿鼻地獄に堕ちる罪深き者として「虚食信施者」(虚しく信施を食ひたる者)と、「昔、仏の財物を取りて食ひ用いたる者」があることを知って驚いた。虚食信施者とは、信者が仏法のために仏物として布施している財を、自分の欲望を満たすために虚しく食うことである。
このことは蓮如上人が
世間へつかう事は、仏物を徒(いたず)らにすることよと、おそろしく思うべし。(『御一代記聞書』)
と告げられているように恐ろしいことである。なぜなら信者の魂を、その志願を踏みにじることになるからである。土下座して謝っても謝りきれない問題である。しかし我々にしてみれば、そのことを罪とも知らずにおこなっていることが多い。だからそのことをよく見て、その罪の深さを知り、恥じることだけが我々を立ち上がらせる力になる。
十八章には、
すべて仏法に事を寄せて世間の欲心もあるゆえに、同朋を言いおどさるるにや。(『歎異抄』)
という厳しい批判が下されている。我々は仏弟子を名告ってみても、世の中で生活する者であるから、経済の問題を疎かにはできない。しかしその経済と仏法との関係どうなっているのか。経済を中心にして仏法なのか、仏法を中心にして経済なのか。仏弟子を名告る自分自身のこととして常に問い、そのことを曖昧にしないことだけが、我々において仏道が始まるのか、始まらないか、そのことを左右することになる。よく問わなければならない問題である。
《平成6年(1994年)9月12日》