夏の行事

“お盆のつどい”を行いました。

【期 日】平成30年8月14日(火)午後7時30分~9時

猛暑の続く今年の夏ですが、お盆の8月14日の夜、“お盆のつどい”を行いました。みんなで一緒に本堂で正信偈同朋奉讃のおつとめをし、そのご紙芝居「地獄めぐり」を上演した後、境内で花火をしました。

“お盆のつどい”は、ここ数年ある善意の方から「子どもさん達といっしょに使って下さい」とたくさんの花火をいただくようになったことをきっかけに始めたものです。私(知見)が子どもの頃は、町内の盆踊りがあって夏休みの一つの楽しみだったのですが、青年部がなくなったこともあって盆踊りがなくなり、お盆の楽しみが一つ減った感があります。

そういう中で、お寺の境内で、大勢で贅沢に花火を楽しめるのもこの企画ならではです。それぞれ夏休みの一つの思い出の一コマとして楽しんでもらえたのではないでしょうか。

また今年は、8/15の米津の川祭りの花火大会と重ならないように14日に開催したためか、昨年を上回る参加者があったので、にぎやかにおこなうことができて良かったです。

来年も“お盆のつどい”は続けていきたいと思いますので、ぜひご家族いっしょに参加して下さいね!
内陣の余間に吊された“切子灯籠”。最近はご家庭のお内仏用のものも商品化されていますね。
おつとめが終わって紙芝居の上演中。
小さい子が真剣に花火をしている姿は頬笑ましいですね。
大人の方も童心に帰って楽しんでいます。

納骨堂物故者追弔会がつとまりました。

【期 日】平成30年8月3日(金)午前9:30~・午後1:30~
【法 話】小谷香示 師(西尾市 明栄寺住職)

猛暑の中、毎年この時期におこなっている“納骨堂物故者追弔会”が、午前・午後の日程で勤まりました。今年は例年にない暑さで、この日も最高気温は37℃の予報が出ていたため、おつとめは本堂でおこないましたが、今回はじめて法話を冷房のあるお非時場でおこないました。涼しい中での仏法聴聞となったので、この判断については皆さんの反応は良かったです。

法話は、ここ数年、西尾市一色の小谷香示先生にお願いしています。先生は、2年ほど前から悪性リンパ腫というガンの闘病をされており、発症後はあちこちに転移があり、ステージⅣという診断がされていたそうです。そういう状況の中でも前向きに、「今できることをさせてもらう」という姿勢で当山の納骨堂追弔会にも快く出講してくださいます。

昨年、来ていただいた時には、抗がん剤治療の影響で髪の毛が殆ど抜けてしまった状態でした。「抗がん剤というのは、がん細胞、つまり細胞分裂を活発にしている細胞に対して攻撃するんだよ。だから髪の毛に対しても、毛根が活発に活動している元気な細胞からやられてしまう」と言っておられました。

ところが、今年は黒々とした髪の毛がふさふさと生えていて、とても驚きました。実は小谷先生は、造血幹細胞の自家移植という治療が功を奏して、現在は完全寛解(完治ではないけれども、ほぼ健康な状態)まで回復されたそうです。先生いわく「転移はあちこちあったけれども、運良く膵臓・肝臓・脳・骨髄などへは転移していなかった」のだそうです。

自家移植という治療法は、自分の細胞なので拒絶反応がないのでメリットがあるけれども、体内で移植した細胞が生着できるかどうかはやってみなければ分からないそうで、ダメだった場合は、他人の細胞を移植する方法へ移行していくのだそうです。それでも一時は無菌室に入っていたそうで、多くは語られませんが、かなり辛い思いをされたのではないかと想像します。

そういう経験を通して小谷先生は、大谷派を代表する学僧、曽我量深師の「信に死して、願に生きよ」という言葉が、ご自身の中でとても重い意味を感じるようになったと言われます。

「信に死して」というのは、「今まで自分が依り所としていた価値観が、真でなかったと気づかされた」ということです。これは日常性に埋没し、目先のことに囚われ、他人と比較して一喜一憂している私たちのあり方です。

それが阿弥陀のはたらきによって(自分の想像を超える経験を通して)、「願に生きよ」(ほんとうの生き方をしてくれ!)と自らの内から呼びかけ続ける新たな主体が誕生するということでしょう。具体的には『阿弥陀経』の中に説かれる「倶会一処」(倶にひとところで出遇いたい)という自らの願いに目覚め、共に生きる他者にもまた同じ願いがあることを信じ、関わっていくということではないでしょうか。

これは成果が上がるかどうかや、実現できたかどうかという相対的な価値観を超えています。そういうことに関係なく、求めずにおれないということだと思います。

小谷先生は、現在は完全寛解でも、今後もし再発した場合、病状は急激に悪化するということも十分理解しているのだそうです。

「信に死して 願に生きよ」は有名な言葉なので、私も以前から知っていましたが、先生のように文字どおり死に直面した経験からこの言葉を味わうと、きっと全然ちがったインパクトがあるのではないでしょうか。

昨年の小谷先生の記事はこちら

一昨年の小谷先生の記事はこちら
暑い中、お集まりいただきありがとうございました。
小谷香示先生。思いのほかお元気で時間をオーバーして熱心にお話しいただきました。
今回、猛暑のため初めて法話を冷房のあるお非時場でおこないました。

夏休み子どもおつとめ教室を行いました。

【おつとめ練習】平成30年7月24日(火)~28(土)朝7;30~8:30
【お楽しみ会】平成30年7月29日(日)朝10:00~11:30

夏休み前半、“夏休み子どもおつとめ教室”を行いました。今年は例年にない猛暑が続いていますが、早朝のこの時間は、まだ過ごしやすいです。
約1時間の日程では、前半は正信偈同朋奉讃の練習を行います。子ども達は記憶力がいいので、はじめて参加した子でも、最終日にはみんな大きな声で正信偈のおつとめができるようになります。

後半は、みんなでフルーツバスケットなどのゲームをして遊びます。参加者は、小1~中学生までと幅広いのですが、みんなで同じゲームをします。最近は年齢の異なる子と一緒に遊ぶ機会が少ないようなので、これも貴重な機会だと思います。今年は、参加人数の少ない日には、ハンカチ落としやイス取りゲームなど、今まであまりやったことのないゲームもやることができ新鮮でした。子ども達のはじける笑顔が見られるのは、やはりとても嬉しいことです。

最終日におこなっている「お楽しみ会」ですが、今年は運悪く台風の接近と重なってしまったため、お楽しみ会自体の開催が危ぶまれたため、いつも子ども達が楽しみにしているカレーライスのお斎の提供を見合わせました。それでも恒例の“かき氷”はみんなで楽しむことができました。

お盆には、8/14午後7:30より“お盆のつどい”ということで、正信偈のおつとめを一緒にして、その後は境内で花火を楽しみたいと思います。この花火は、毎年ある善意の方から提供いただいているものですが、もの凄い量なので、とても贅沢に花火遊びができます。ぜひ大人の方もご一緒に、お墓参りがてらご参加ください。

また冬休みにも、おつとめ教室と子ども報恩講をつとめます。また日程が決まったらご案内しますので、こちらもぜひご参加ください。
正信偈の後の念仏の扱いについて説明しているところです。
“震源地”というゲーム。学年に関係なく楽しめます。
イス取りゲームです。イスに座る合図はお寺らしく「おりん」です。(笑)
かき氷。みんな何回もおかわりに並びます。

第39回 暁天講座が開催されました。

【期 日】平成30年7月21日(土)~23日(月)朝5時30分~7時
【法 話】小栗貫次 師(西尾市 玉照寺若院)・戸松憲仁 師(岡﨑市 福万寺住職)

猛暑が続く今年の夏、暁天講座が開催されました。初日は正信偈同朋奉讃のおつとめの後、小栗貫次先生の法話がありました。

小栗先生は、今年の当山の行事に登場いただく講師の中で最年少ですが、その真摯な姿勢にいつも襟を正される思いがします。

印象的だったのは「ナムアミダブツのはたらきというのは、一人でいるとなかなか感じにくいんです。ナムアミダブツは人と人の間に生じるはたらきだからです」という言葉です。そして
大谷派の学僧 曽我量深 師の次の言葉を紹介して下さいました。

和とは不和なり 不和の悲しみなり
大悲なり 回向なり 象徴なり
感応同交す

この言葉は、私もはじめて知ったのですが、鋭い視点だと思います。いくら相手と「仲良くしたい、仲良くしよう」と思っても、実際はなかなかそうなっていないのが私たちの現実ではないでしょうか。そうできないのは、いろいろ理由を挙げることはできるでしょうが、要は私自身がそうできない根性を持ち合わせているからです。

この一文は、しかし「そういう根性を持ち合わせて生きている」という自覚を持つことはできるということを言っているのだと思います。仲良くしたいが仲良くし切れないこの私がここにいるという自覚。実はそれが和を作っている。人間社会の和とはそういうものであり、そこにしか人間社会の平和はないのだ、ということを曽我先生はおっしゃっているのではないでしょうか。

「女装の東大教授」ということで時々テレビなどで見かけることもある安富 歩(やすとみ あゆみ)さんが書かれた『生きる技法』という本を最近読み返しています。その中で安富さんは「人が真に独立するとは、誰にも頼らなくて良いような自分になることではなく、全く逆に、依存できる関係性をたくさん持つことなのだ」という、目から鱗が落ちるような新鮮な考え方を提唱しています。

その中で、依存する相手としての「友だち」について次のように書かれています。

自分より地位が高かったり、年齢が高かったりする人であっても、対等に付き合ってくれるなら、それは友だちです。ここに言う対等とは、タメ口を利くことではありません。目上の人にそういうことをするのは失礼なだけです。そうではなくて、お互いに人間として尊重しあうという意味です。

お互いに人間として尊重しあう、というのは、相手の考えていることや感じていることを、正しく認識するように、双方が心がける、ということです。自分で相手について勝手な像を捏造して、それを押しつけるなら、それは相手を侮辱していることになります。

たとえば、相手が高い地位を占める人だとしましょう。その人に「偉い人」というレッテルを貼り付けて、「偉い人扱い」をして、機械的に「偉い人用の取り扱いマニュアル」を適用するのは、その人に対する侮辱になるのです。一見したところ、「偉い人」を「偉い人」として扱っているのだから、失礼になるまい、と思うかもしれませんが、それでも、その人自身の像を探求する、という努力を放棄して、「偉い人扱い」するなら、それは侮辱になります。

どんなに立場に違いがあろうとも、お互いの真の姿、真の考え、真の感覚を探求しあう、ということが、相互に尊重しあう、ということなのです。これが人間として対等と言うことの意味です。

ここには親鸞聖人が自分の周りの人に対して言われる、御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)ということに通じる考えが示されていると思います。

もう一つ印象的だったのは、親鸞聖人(1173-1263)が、亡くなられた時に荼毘に付されたと伝えられる、京都の延仁寺(えんにんじ)というお寺に先生が行かれた折、そのお寺にある共同墓(納骨堂)に刻まれていた言葉についてのお話でした。そこにはこう書かれていたそうです。

名モナキモノノ
名ニヨッテ
歴史ハ 荘厳サレル
名モナキモノニ帰レ

この言葉自体は、誰が書いたものかは不明だそうですが、小栗先生は、この「名モナキモノ」というあり方が、人間本来のあり方ではないかと言われます。私たちが求める幸福とは、これとは逆で「名のある者」になることによって達成されると考えているのではないでしょうか。つまり、幸福とは「自分の思い通りになること」で、地位や財産や権力を手に入れれば、その自分の思いが通りやすくなると考えるわけです。私たちは学校教育や社会教育によって子どもの頃からこの価値観をずっと植え付けられて育ちます。

しかし、安富さんの説にもあるとおり、お互いが依存し合い、心を通わせることのできる人が多い方が、よっぽど豊かな生き方ではないでしょうか。人類の歴史は、一部の権力者に依ってではなく、多くの名もなき人々によってこそ豊かに展開してきたのだという見方は、とても勇気づけられます。
小栗貫次先生。早朝にふさわしい心が洗われるようなお話です。
朝5時半すぎ。この時間はまだ涼しいですが、今年は連日35度を超える猛暑が続いています。

盆前清掃奉仕をしていただきました。

【期 日】平成30年7月15日(日)朝8時~9時
【担 当】南根・西根の檀信徒の皆さんと役員さん

早朝より30度近くまで気温が上がり、うだるような猛暑となったこの日、毎年恒例の盆前清掃奉仕をおこないました。今年の当番は南根・西根で、100名を超える皆さんが作業をして下さいました。

盆前清掃は、毎年7月の第3日曜日と決めてあるのですが、これはとなりの和泉町にあるゴミ焼却施設が、普段は平日のみゴミの受け入れをしていますが、毎月第3日曜日はゴミの受け入れをしているので、そのタイミングに合わせて実施しています。

それにしても今年は暑かったです。本当はもっと早い時間から作業を始めたいところですが、焼却施設が朝9時からしか刈り取った草の受け入れをしてもらえないので、以前からこの時間で作業をお願いしています。

毎年、各班より軽トラックと草刈機をそれぞれ1台ずつ提供をお願いしているのですが、最近は「うちの班は誰も持っていないので両方とも提供できません」と言われることが増えてきました。のどかな田園風景が広がっているここ根崎町でも、会社勤めの方が殆どとなり、田んぼはあっても営農に預けている方が多くなりました。以前は当たり前のように各家庭にあった軽トラや草刈機も、使う機会がなくなりつつあるということなのでしょう。諸行無常とは言いますが、変化の波は確実にこの地域にも押し寄せていると感じます。

作業をして下さった皆さん、今日はほんとうにお疲れさまでした。m(_ _)m
じっとしているだけでも汗ばむ陽気の中、100名を超える皆さんが参加してくださいました。
水分補給をしっかりしないと熱中症になりかねない暑さです。
作業が終わり、責任役員の杉浦治雄さんが、皆さんの労をねぎらう挨拶をしているところです。
暑い中、本当にお疲れさまでした。

夏期教化委員会を開催しました。

【期 日】平成30年6月28日(金)午後7時~8時
【出席者】役員、寺世話方、本山世話方、婦人会役員、教化委員(26名)

梅雨の合間で、蒸し暑さを感じる1日となったこの日の夜、寺の役職者の皆さんに集まっていただき、この夏の諸行事について協議していただく教化委員会を行いました。宝林寺では、秋と夏の2回、この教化委員会という会合をお願いしています。

今回の議題は、今年で39回目となる「暁天講座」、15組主催の公開講座の「真宗講座」、7月下旬に1週間ほど行う「夏休み子どもおつとめ教室」など、それぞれの行事について説明し、参加者の募集などについてお願いしました。

浄土真宗という仏道の特徴を一言でいえば、「口先だけでもいいからお念仏を称えつつ生活する」ということだと私(知見)は受け止めています。意外に思われるかもしれませんが、そこには「清らかな心で」とか、「ご先祖の御恩を思いうかべながら」というような、私たちの心理状態を問題にする必要はありません。

なぜなら真宗は、私の願いを仏さまに回向する(振り向ける)教えではなく、「仏さまから願われていたのが私であった」ことに目覚めていく教えだからです。つまり、私たちがいちばん欲している、私の思いが叶えられたり、都合よく状況が好転することが、本当の救いとなるのではないということです。

まったく、分かりにくい話ですよね。

そのあたりの訳を聞くことが「仏法聴聞」という形で伝統されてきています。これはある程度、継続して聞いていくことが大事です。ぜひ一座でも講座にご参加いただきたくご案内申し上げます。

また、町内在住の檀信徒さんに当番制で1年おきにご協力いただいている、墓地と境内地の草刈り奉仕も7月15日(日)に予定しています。今年は南根と西根の皆さんの担当となります。ご協力のほどよろしくお願いします。

絶家無縁経法要がつとまりました。

【期 日】平成30年6月12日(火)午前9時30分・午後1時30分
【法 話】鈴木 聡 師(安城市石井町 明水寺住職)

梅雨入りした影響なのか蒸し暑い曇天となったこの日、絶家無縁経法要がつとまりました。

この日の、講師は同じ15組の仲間で、明水寺(石井町)の鈴木 聡さんにお願いし、午前・午後と法話をしていただきました。少し感想を書いてみたいと思います。
今回の法話では、真宗と他宗の教えの方向性の違い。仏法の聞きよう。教えとどう向き合うかということがテーマであったように思います。

私たちが日ごろ求めているのは、幸福ということに尽きますが、その内容はと言えば、「私の思い通りになること」と言っていいでしょう。目標を立て、それに向かって努力をし、その先に自分の望む結果を期待する。そのこと自体はとても健全だと思います。その目標に向かって努力している間は迷いはなく、とても充実した時間を過ごすことができるでしょう。また宗教についても、その願望を叶え、支援してくれる一つの要素というか、保険のようなものとして考えておられる方も多いと思います。

しかし努力が実らず、思い通りの結果が得られなかった時、あるいは思いもよらない事故や災難に遭った時、今までと同じように前向きに生きていくことができるでしょうか。後悔と恨みで、生きる気力を失ってしまうということが誰にでも起こりうるでしょう。再び歩き出せるきっかけは、どのように見出せばよいでしょうか。

法話の中で、「私が私を見捨てても、私を見捨てない教え」という言葉がありました。ここに行き詰まりをどう超えていくか、考えていく糸口があるように思います。

七高僧のひとり、中国の善導大師は、「仏法の教えとは、喩えるなら鏡である」ということを言われます。この場合の鏡とは、「自分の内面を映し出し、自分自身に出遇わせるはたらき」と言っていいでしょう。私たちは、自分のことを知っているつもりでも、正確に自分の姿が見えているわけではないといいます。他と比べて自惚れてみたり、ひがんでみたり、あるがままの自分をなかなか受け入れることができません。その事実を知らされ、うなづけた時が、実は仏法に出遇った瞬間ということなのでしょう。

少し長くなりますが、法話の中で先生が紹介して下さった。教育者で詩人でもある東井義雄さんの著書『バカにはなるまい』に収録されている、ある中学生が書いた作文を引用させていただきます。


『元服』

僕は、今年三月、担任の先生にすすめられて、B君と二人、ある高校を受験した。その高校は私立ではあるが、全国の優等生が集まってきている。いわゆる有名高校である。担任の先生から「君たち二人なら絶対大丈夫だと思う」と強くすすめられたのである。

ぼくらは得意であった。両親も喜んでくれた。先生や父母の期待を裏切ってはならないと、僕は猛烈に勉強した。ところが、その入試で、B君は期待通りパスしたのだが、僕は落ちてしまった。得意の絶頂から奈落の底へ落ちてしまったのだ。何回かの実力テストでは、いつも僕が一番でB君がそれに続いていた。それなのに、その僕が落ちてB君が通ったのだ。

誰の顔も見たくないみじめな思い。父母が部屋に閉じこもっている僕のために、僕の好きなものを運んで来てくれても、やさしい言葉をかけてくれても、それがみんなよけいにしゃくにさわった。何もかもたたき壊し、引きちぎってやりたい怒りに燃えながら、ふとんの上に横たわっているとき、母が入ってきた。「B君が来て下さったよ」と言う。

僕は言った。「母さん、僕は誰の顔も見たくないんだ。特に、世界中で一番見たくない顔があるんだ。世界中で一番いやな憎い顔があるんだ。誰の顔か、言わなくたってわかっているだろう。帰ってもらっておくれ」。母は言った。「せっかく、わざわざ来て下さっているのに、母さんにはそんなこと言えないよ。あんた達の友達の関係って、そんなに薄情なものなの。ちょっと間違えば敵味方になってしまうような薄っぺらいものなの。母さんにはB君を追い返すなんてできないよ。いやならいやでソッポ向いていなさいよ。そしたら帰られるだろうから」と言っておいて母は出ていった。

入試に落ちたこの惨めさを、僕を追い越したことのない者に見下される。こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、僕は気が狂いそうだった。二階に上がってくる足音が聞こえる。ふとんをかぶって寝ているこんなみじめな姿なんか見せられるか。胸を張って見据えてやろうと思って僕は起き上がった。

戸があいた。中学の三年間、いつも着ていたくたびれた服のB君。涙をいっぱいためたB君が、くしゃくしゃの顔で「A君、僕だけが通ってしまってごめんね」。やっとそれだけ言ったかと思うと、両手で顔をおおい、かけおりるようにして階段を下りていった。

僕は恥ずかしい思いでいっぱいになった。思い上がっていた僕。いつもB君には負けないぞと、B君を見下していた僕。この僕が合格して、B君が落ちたとして、僕はB君を訪ねて、「僕だけが通ってしまってごめんね」と泣いて慰めにいっただろうか。

「ざまあみろ」と、よけいに思い上がったに違いない自分に気がつくと、こんな僕なんか落ちるのが当然だったと気がついた。彼とは人間のできが違うと気がついた。通っていたら、どんな恐ろしい、ひとりよがりの思い上がった人間になってしまったことだろう。

落ちるのが当然だった。落ちてよかった。本当の人間にするために天が僕を落としてくれたんだと思うと、悲しいけれども、この悲しみを大切に出直すぞと決意みたいなものがわいてくるのを感じた。

僕は今まで思うようになることだけが幸福だと考えてきたが、B君のおかげで、思うようにならないことの方が、人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。昔の人は十五歳で元服したという。僕も入試に落ちたおかげで、元服できた気がする。

ここに、「私が私を見捨てても、私を見捨てない教え」が具体的に示されているように思います。B君の誠実さに触れて、
落ちてよかった。本当の人間にするために天が僕を落としてくれたんだと思うと、悲しいけれども、この悲しみを大切に出直すぞと決意みたいなものがわいてくるのを感じた」と、入試に落ちた事実を、私を本当の人間にするための必要不可欠な出来事と受け入れています。試験には落ちたけれども、より大切なものに気づくことができた感動が溢れているように感じます。

そして「私を見捨てない教え」に出遇うと、これまで自分が愛され続け、赦され続けていたことに気づかされ、自ずから慙愧(ざんぎ)する心が起こるのでしょう。

親鸞聖人は慙愧とは、

慙(ざん)は内に自ら羞恥(しゅうち)す、愧(き)は発露(ほっろ)して人に向かう。慙は人に羞(は)ず、愧は天に羞ず。これを慙愧(ざんぎ)と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。(『教行信証』信巻)

といわれます。仏法に遇い、慙愧することを通して、相手のことを思いやることがはじまり、人と人との関係が開かれていくということでしょう。ここには、自分と周りの環境との関係が大きく意味を変えて現れてきています。またそのことにより、傷つき生きる気力を失った者が、再び生きる力を回復していく第一歩が与えられるということが示されていると思います。

20年以上も昔、ある先生から「真宗は、転ばぬ先の杖ではない。転んでから立ち上がる教えだ」と聞かされたことを思い出します。人生が思い通りにいかない以上、こういう教えというのは、特定の人だけでなく、誰にとっても必要な教えではないでしょうか。

「寺報」にも今回のお話について触れてあります。
鈴木 聡 先生(石井町 明水寺住職)

大浜騒動殉教記念会の皆さんが来寺されました。

【期 日】平成30年6月5日(火)

毎年、西尾市一色の赤羽別院において、大浜騒動の殉教記念法要が勤められています。法要自体は午後からなのですが、午前中に大浜騒動にゆかりのあるお寺などを巡るのが最近の流れなのだそうです。当日は、主に西尾市より80名ほどの皆さんが来寺されました。

先日お配りした「宝林寺だより」にも書きましたが、当山の12世住職 鈴木抱惠も20代前半でこの事件に巻き込まれ、収監された事実があります。私なりに、当山の大まかな歴史やこの事件の意義とその後の影響などについて、短い時間でしたがお話しさせていただきました。真剣に聞いていただいたのも嬉しかったのですが、本堂がいっぱいの聴衆で人の熱をひしひしと感じられたのも良かったです。

150年前、他宗派の各教団が沈黙する中で、真宗門徒の先達が、強引な政府の宗教政策に抵抗した大浜騒動は、政府に政策の転換をさせるきっかけの一つとなりました。これは廃仏毀釈による日本の仏教の破壊に歯止めを掛けたという大きな意味があったと言えます。後の世代にもそのことを伝えていく責任をあらためて感じました。
やはり大勢の人の熱気はいいですね。
当日は、この「宝林寺だより」も皆さんに配布しました。

除草剤散布・おみがき奉仕をしていただきました。

【期 日】平成30年6月3日(日)朝7:00~

さわやかな晴天となったこの日、8名の役員さん達によって、毎年恒例の墓地と境内地の除草剤散布を行いました。この作業は、7月の第3日曜日の朝におこなっている墓地の草刈りのための下準備という意味もあります。町内会より大型の噴霧器を借り、250リットルの水で希釈した除草剤を撒いていただきます。今回は、新役員さんになって初めての作業でしたが、日ごろからこういう作業に慣れている方もおられ、スムーズに進み、1時間ほどで完了しました。

また、本堂では、この夏のいろいろな行事に向けて、婦人会役員さんと北根②の婦人会連絡員さん達によって仏具のおみがき奉仕もしていただきました。この作業の時期になると、いよいよ夏が始まるなと感じます。

皆さま、お忙しい中ご協力いただきありがとうございました。

平和を考えるお盆のつどい

【期 日】平成29年8月15日(火) 午後7時~9時

お盆の最終日、「平和を考えるお盆のつどい」を行いました。最近の天候不順で、外で花火ができるか直前まで微妙な雲行きでしたが、なんとか雨が上がってみんなで花火ができて良かったです。

この行事は、数年前より、ある檀徒の方より「子どもさんと一緒に使ってください」ということで大量の花火を寄付していただいたことをきっかけに始めました。せっかくなので、ただ花火を楽しむだけでなく、平和を考える機会にしたいということで続けている行事です。

今回は、40年も前に前住職が買って、日曜学校などで使っていた「スライドプロジェクター」という機材を使って、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を上演しました。地獄に堕ちたカンダタを、生前に1匹のクモを助けてやったことに免じて、お釈迦さまが極楽の蓮池より一本のクモの糸を地獄に垂らして、救ってやろうとしたという、あのお話です。デジタル作品にはない質感で描かれる地獄の様子などは本当に恐ろしく、ビビっている子もいました。
芥川の原作にはない、翌日もう一度、お釈迦さまがカンダタを救うために地獄へ降りて行って対話するというオリジナルストーリーが加えられており、一席の法話を聞くような味わいがありました。

その後、境内に出てみんなで花火をしました。今年も、人数に対して花火の本数が圧倒的に多いので、とても贅沢に花火を楽しむことができました。今年も花火を寄付していただいた坂本さん、鈴木さん、どうもありがとうございました。m(_ _)m

毎年この時期は、広島・長崎の原爆投下や終戦記念日などに関連したテレビ番組なども放映され、戦争と平和について考えるよい機会だと思います。特に今年は、安倍政権による憲法9条の改憲への動きの活発化や、北朝鮮のICBMの発射実験をめぐる緊迫した空気など不穏な状況が続いています。そんな中でこれまでの日本のスタンスだった平和主義が揺らぎはじめています。武力では平和を作り出せないことを身をもって知っている世代がどんどん少なくなって、勇ましい言説が目立ってきていることに危惧を感じます。

インドのマハトマ=ガンディーは「平和への道はない 平和こそが道なのだ」と言ったそうです。この言葉を私は“平和は目指すものではなく、作り続けていくものだ”といただいています。平和は政治家や自衛隊によって維持されるのではなく、私たち自身が自分で考え、行動することによって受け継がれていくものだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?
『蜘蛛の糸』上演中。デジタル作品にはない迫力があります。
なんとか雨にならずに花火ができました。
花火は大人も子どもも世代を超えてたのしめます。
最後は恩徳讃を歌って終了しました。

15組主催 真宗講座 於: 信照寺(安城市榎前町)

【期 日】平成29年8月9日(水)午前9:00~
【会 場】榎前町 信照寺
【法 話】安藤 弥(わたる) 師 (同朋大学教授)

台風一過で、強烈な日差しが降り注いだこの日、真宗講座の第4回目が開催されました。厳しい暑さでしたが、今回会場となった信照寺さんには、この日に合わせて本堂にエアコンを導入していただいたので、快適に聴聞をすることができました。

今回の講師は、教区内、岡崎市の安藤 弥 師でした。安藤先生は、今回の真宗講座の講師4人の中で最も若く(私よりも!)、静かな語りの中にも情熱を感じるお話でした。
講題は「『蓮如上人御一代記聞書』に学ぶ」ということで、A4用紙両面にまとめられたレジュメを元にお話しいただきました。先生は、研究者であるということもあって言葉に厳密で、専門用語などもなるべく噛み砕いて伝えようとされている感じが印象的でした。
江戸時代、北陸の西本願寺門徒の間ではじまり、西本願寺宗門全体を巻き込んだ「無帰命安心」と「三業帰命説」の間の論争、いわゆる「三業惑乱」の話など、普段の法話ではあまり触れられることのない事件についても語られて、たいへん興味深かったです。そもそも『御一代記聞書』自体が、江戸時代中期に成立したのは、この事件が背景にあるなど、ほとんど予備知識をもっていない私は、「そういうことだったのか」と驚かされました。

蓮如上人がよく『御文』などでも「阿弥陀仏をたのむ」という表現をされるのですが、現代人にとっては、この受け止め方が、実はなかなか難しいのです。
現代語で「たのむ」といえば「頼む」と書いて「依頼する、請求する」というニュアンスがどうしてもぬぐえません。ご本尊 阿弥陀如来にどういう心持ちで向き合うかといった場合も、どうしても「お願いします」ということになってしまいがちです。このことについては、お説教では「そうではない」と否定されます。聞法を重ねてきた方だったら、これは何回も耳にしたことがあることだと思います。しかし、否定された後、じゃあどうすればよいか?ということがなかなか不透明なのではないでしょうか。

この「たのむ」は「憑(たの)む」なのだと言われます。その心は「おまかせする、よりかかる」であると。これも何度もお聞きしたことがあるのですが、私自身、いま一つはっきりしませんでした。言葉としては理解できるけれども、具体的な生活の中で、このことをどう関連づけて受け止めたらよいかが分からなかったのです。

今回、安藤先生のお話をお聞きして「ああ、そういうことか」という発見がありました。「おまかせする」というと、何となく「これまでの事はこれまでの事として、これからは心を入れ替えて・・・」というふうに聞いていたのですが、「私の意思を超えて、目覚めるために必要な材料は、すでにすべて与えられていたのだ」ということではないかと思いいたりました。安藤先生の、どの言葉によってそう思ったということではなくて、お話全体をとおして、そういうメッセージとして聞こえてきた、という感じです。

合わせて、数年前、自坊の暁天講座で、戸松憲仁先生に教えていただいた詩が、この内容をよく表しているように思えたので、ご紹介します。


『丁度よい』  藤場美津路(みつじ)作

お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸もよろこびも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連の人生
丁度よくないはずがない
丁度よいのだと聞こえた時
憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏

この詩を作ったのは、私も時々参加させていただいている、名古屋で行われている正信偈の学習会があるのですが、その講師をされている石川県 野々市市の藤場俊基先生のお母様なのだそうです。

この「丁度よい」というのも、どう戴いたらよいかと思っていたのですが、今回の安藤先生のお話を聞きながら、これが蓮如上人のいわれる「たのむ」ということが受け止められた姿なのではないか、と一人うなずいた次第です。

とにかく、安心(あんじん)の話は、「どこかの誰か」の為に解かれた万能の救済ではなく、「いま、ここにいる私一人」の為であると心得て聞かねばならないと改めて思いました。
安藤弥 先生。研究者らしく、ふだん聞く法話とは、ひと味違ったお話でした。

納骨物故者追弔会がつとまりました。

【期 日】平成29年8月4日(金)午前9時30分~・午後1時30分~
【法 話】小谷香示 師(西尾市一色 明栄寺住職)

8月らしい暑さとなったこの日、午前・午後の日程で、納骨物故者追弔会が勤まりました。今年は新規に本堂納骨をされた方が多かったためか、大勢の方にお参りいただきました。ありがとうございました。

今回の法話は、昨年に引きつづき、西尾市一色の小谷香示先生にお願いしました。先生は昨年より抗がん剤による治療をされており、体調が心配されましたが、思いのほかお元気な様子で、以前と変わらない張りのある声で、熱く語って下さいました。

先生は「ガンになって、“死”ということを意識せざるを得なくなって、今まで学び、分かったつもりになっていたことが、いかに浅いところで受け止めていたかと思うようになった」といわれます。自分の境遇を見つめ直す中で、終戦直前に治安維持法違反の疑いで捕らえられ、終戦後も釈放されることなく拘置所で亡くなった、哲学者の三木清(1897-1945)の言葉が響くと言われました。

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった 『人生論ノート』

成功=幸福、不成功=不幸という図式は、私たちの常識となっています。無限の可能性のある若者ならば、この考え方を励みに日々努力していけるかもしれません。しかし、老いや病気などで、成功を目指すことができないことが分かった時、そこには絶望しかありません。そんな中でも、人は幸福を見出すことはできるのか?この日の法話はそういう視点で展開されました。

本願力(ほんがんりき)にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし (親鸞『高僧和讃』)

人間にとって「むなしく過ぎる」ということが、一番の不幸ではないでしょうか。一生懸命やって来たことが、結局、何の意味も見出せなかった。徒労感・・・。仏教ではこのことを「空過(くうか)」といいます。

しかし「阿弥陀仏のはたらき(本願力)の中に私の人生があったのだ」という気づき(このことを「信心」といいます)がひとたび起これば、「どんな出来事も決してムダではなかった、といただいていくことができるのだ」というのがこの和讃の意味するところだと思います。先生は「本願力」を「本願」=「何とかしてあげたい!」。「力」=「せずにおれん!」という阿弥陀の心だと受け止めていると言われました。つまり、私たちの日常におこる全ては、阿弥陀仏が「何とかしてあげたい!」と私一人の目覚めを促すための方便だったのだという視点を与えられたということだと思います。
また「功徳の宝海とは名号のことだ」と言われます。名号とは南無阿弥陀仏の声、「目覚めよ!」という呼びかけであるということでしょう。

「ナムアミダブツに出遇えば、すべてのものやことに意味や意義が見出されてくるんです。私たちは所詮、無常と流転の存在です。でもそこには成長という意味も含んでいるはずです。いま外ではセミが大声で鳴いてますね。朝早くから鳴き出すもんだから、以前はうるさいなぁと思っていましたが、彼らは何年も土の中にいて地上に出てからは1週間ほどで死んでしまうんです。だから最近は、あのセミの声が『私のように、限られた命を懸命に生きてくれよ!』という叫びに聞こえるんですよ。今、こうしてここに生きていること、人が人として存在していること自体が幸福なんだ。私が私としてある、あなたがあなたとしてある、これが原点なんだ」と力強くおっしゃいました。
小谷香示先生。話したいことが尽きないという感じでした。
熱い中、大勢の方にお参りいただきました。
子どもおつとめ教室に続いて、かき氷器の登場。あまりにも暑いので。
身体の内側から冷えて、ほっこりします。

15組主催 真宗講座 於: 龍讃寺(西尾市米津町)

【期 日】平成29年8月2日(水)午前9時~
【会 場】龍讃寺(西尾市米津町)
【講 師】海 法龍 師(神奈川県横須賀市 長願寺住職)

暑さもそれほどでもなく、花曇りの天気となったこの日、15組主催の真宗講座の第3回目が催されました。今回の講師は、海 法龍 師でした。海先生は、この日の早朝の、三河別院の暁天講座からの引き続きでご出講いただきました。

お話の印象としては、とても言葉を大事にされているという感じを受けました。例えば、法話の前には皆で『正信偈』の勤行をしますが、通常お寺の勤行本を借りている場合、お勤めが終わればすぐに回収するのが普通です。しかし海先生は、それぞれ勤行本を手元に置くように言い、「お聖教の文に当たることも大事です」と、引用する部分では、その都度ページ数を言って、みんなに文言を確認してもらっていました。また引用した部分を「本願名号正定業」、「この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」と声に出して言うことを勧めておられました。「声に出したものは、自分の耳で聞くことになりますから」と、現代人が忘れがちな身口意(しんくい)の三業で仏法をいただくという伝統の大事さを伝えようとされているようでした。

また、聖教の言葉を現代人に受け取りやすいように噛み砕いて、積極的に自分の言葉で再表現していこうという姿勢を強く感じました。

善悪にこだわり、互いに傷つけ合う私たち凡夫のありようを、詩人の吉野弘さんの「過」という詩を紹介しつつ、問題提起をしていただきました。


「過」    吉野 弘

日々を過(す)ごす
日々を過(あやま)つ
二つは
一つことか
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたはどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようで――


「『過』という字に“すごす”という意味と、“あやまつ”という意味を重ねて見る詩人の感性には驚かされますね」と言いつつ、私たちの「あやまち」の内容を敷延して、①「あやまる→殺(あや)める」。つまり相手や、時には自分の存在を否定すること。そこに存在しているのに、自分の思いに適わなければ、排除しようとする心が起こってしまうことや、②「あやまる→怪(あや)しむ」と広げて、「仏さまを疑う」ということ。つまり仏智疑惑とは、私たちは“自分の心”を信頼しているので、仏法を聞いても教えにならない。つまり仏法を聞くことを、自分を高める参考意見のように聞いてしまい、「アドバイスを聞いて理想的な私になって救われていく」という発想から抜け出せない、それこそが凡夫の姿なのだと知らされて(信知して)、私たちははじめて、③「あやまる→謝(あやま)る」という心が起こるのだと。「このことが南無阿弥陀仏と出遇うということなんです。自分の立ち位置を問われ、そして居場所が見つかるということ、本来の人間らしさを回復するということなんです」と言われたのが印象に残りました。


海 法龍 先生。エネルギーあふれる熱い語りです。

子どもおつとめ教室の最終日「お楽しみ会」をしました。

【期 日】平成29年7月30日(日)朝10:00~昼1:00ごろまで

子ども達は、今年も夏休み前半の24日から29日までの間、「子どもおつとめ教室」で正信偈の練習をしました。この日は最終日の「お楽しみ会」ということで、おつとめの他、お話しやゲームなどでみんなで楽しく過ごすことができました。今年は初めての日曜日のお楽しみ会ということで、どれくらいの子が集まってくれるか心配しましたが、普段は部活に行っている中学生の子たちも参加できて、40名を超す参加者がありました。

先日、「おつとめ教室の子どもさんへ」ということで、たくさんの手作りのお念珠入れやバッグを作ってくれた方があったのですが、子ども達への渡し方は、なるべく公平になるようにということで、ビンゴゲームにしました。中学生の子たちが大活躍で、大きな混乱もなく手渡すことができて良かったです。

お斎では、5升炊いたご飯も、大鍋いっぱいのご飯もペロリと平らげた子たちでしたが、恩徳讃の後に外の階段のところでかき氷を作るのですが、かき氷は別腹とばかりに何回もおかわりに並んでいました。準備はなかなか大変ですが、それぞれ夏休みの一日を堪能できたようで、良かったです。

また冬休みにも、おつとめ教室と子ども報恩講を予定していますので、また参加してくださいね!



“空き缶積みリレー”。1チーム12名で、チーム対抗で行いました。


境内で“宝探し”をしています。


これが“お宝カード”です。みんなが正信偈のおつとめをしている間に、坊守が境内のあちこちにかくします。(^^)


寄付していただいた、たくさんの念珠入れとバッグ。


中学生の子たちがビンゴゲームを仕切ってくれました。


みんなで食べると、より美味しいです。


競い合ってお替わりするので、大鍋のカレーもこのとおり。


食後のお楽しみは、かき氷。手動なので40名超+おかわりなので、シンドイです。(^^ゞ




15組主催 真宗講座 於: 城泉寺(城ヶ入町)

【期 日】平成29年7月29日(土)午前9:00~
【会 場】安城市城ヶ入町 城泉寺
【講 師】一楽 真 師(大谷大学)

岡崎教区第15組主催「真宗講座」の第2回目が開催されました。この日もとても蒸し暑い日でしたが、満堂の本堂で大勢の方々が熱心に聴聞されていました。

一楽先生のお話で印象的だったのは、現代社会がかかえている様々な問題を、親鸞聖人や法然上人のことばから読み解いていく、いわば「生きてはたらく念仏の教え」の説得力のある表現でした。

多くの人の心に響く表現ができるというのは、どういうことでしょうか。想像するに、先生はふだん二十歳前後の学生さん達と交わりながら、彼らに届く表現を日々工夫しておられるからではないかと思いました。言うまでもないですが、これはうわべだけの技法ではなく、おそらく誠実な生き様や、信頼関係に裏打ちがあってこそだろうと思います。

今回のお話では、「愚」という言葉が一つのキーワードになっていました。この場合の「愚」というのは、「知恵が足りない」とか「思慮に欠ける」ということを言っているのではありません。私たちは一生懸命生きていく中に、ほんとうは大事なことを、つい後回しにしてしまったり、一生懸命に生きているからこそ、相手を傷つけてしまうというようなあり方をしています。そのことが「愚」というあり方だと言われるのです。

そういう私であることを阿弥陀さまから教えられ、「こうあらねばならない」という自分の思い込みから解放されていく道が真宗における救いであるという論旨でした。つまり自分の努力で理想的な自分になって救われていくのではなく、私たち凡夫は、阿弥陀さまに自身の姿を教えられることでしか救われませんよ、という教えなのです。

先生はここ最近、続けざまに友人や聞法の仲間を亡くす経験をされたそうで、その中から、改めて教えの言葉に出遇い直すということがあったそうです。私たちが病気になった場合、普通は病気が治ることが救いだと思うでしょう。しかし、それがどうやっても治らない病気の場合、病気の完治を救いの条件にするならば、そこには絶望しかありません。しかし病気が治ることではなく、病気を憎むことから解放されていく道があるのだということを教えられたそうです。

また、今回の講座で、もう一つ特徴的だと思ったのは、法話の後、「質問があれば」ということで参詣者に発言を促されたのですが、驚くべきことに、時間いっぱいまで、人数にして7、8人の方が質問をされました。これはめったにないことです。

「とにかく南無阿弥陀仏を称えることだと言われるが,蓮如さんの『御文』では、口にただ念仏を称えても意味がない。信心がなければダメだと書いてあるが、どう受け取ればいいのか?」、「真宗の救いは、上昇志向から解放されることだと言われたが、私が開かれるというと、何かだんだん良くなっていくようなイメージがあるが、どう違うのか?」などの質問に丁寧に答えてくださいました。さまざまな年代の方が質問されましたが、どの問いも聞法している人なら一度は考えるような疑問で、「私もそれを聞きたかった」というようなものばかりでした。

「この先生なら、私の疑問に何と答えてくれるだろうか」、「きっと、この先生なら受け止めてもらえる」という安心感が、その場では確かに共有されていました。「ここにサンガあり!」という情景を目の当たりにした思いでした。 
一楽 真 先生。誠実な人柄がにじみ出るようなご法話でした。

暁天講座 第2日目・第3日目

【期 日】平成29年7月22日(土)・23日(日)
【法 話】戸松 憲仁(とまつ のりひと)師 (岡崎市矢作 福萬寺住職)

暁天講座、二日目と三日目のご法話は、毎年岡崎市矢作の戸松憲仁先生にお願いしています。戸松先生には、毎年法話のテーマと主旨文をお願いしているのですが、今年は「煩悩-道綽(どうしゃく)に学ぶ」ということでお話しいただきました。
道綽善師は、6~7世紀の中国のお坊さんです。親鸞聖人が、「この方々がもし世に出られなかったならば、自分にまでお念仏の教えが届くことはなかっただろう」と非常に深く尊敬されているインド・中国・日本の七人の方々を七高僧として『正信偈』に名前を挙げておられますが、その第四祖になります。ちなみに「禅師」とは、「禅宗の人」という意味ではなく「実践の人」という意味だそうです。哲学的に仏教を研究するのではなく、生活の中で実践する仏教を求めて、お念仏の教えに出遇われ、お念仏を人々に伝える一生涯だったということだと思います。

今回、戸松先生が用意してくださったレジュメより一部をご紹介します。

「死は終わりではない」
私も寺の住職として、多くの人の死を見てきました。予期せぬ別れであったり、つらい別れであったり様々です。
そして、残されたご家族や親せきの人たちのお話を聞いたりする中で、私が学び、感じてきたことは、「死んだら終わりではない」ということでした。
ある同行のご婦人がご主人さんを亡くして、いま家に一人ぼっちで暮らしています。お聞きしますと・・・毎日お仏壇に向かって、ご主人に話しかけているんだそうです。今日あったこと・・・うれしかったことも悲しかったことも・・・
話しかけても決してお返事が返ってくるわけではありませんけれど・・・
そうせずにいられないんでしょうね。
今は亡き夫が、ずっと黙って聞いてくれているのです。きっと、そのことで、どんなに日々支えられていることかと想像します。
「いのち」を精いっぱい生きていくためには、時には亡き人に出会える「ところ」「とき」が必要なのです。
私たちは、「死んだらしまい」と、どこかで思っていますが、そうではありません。姿かたちはなくとも、「有る」ものがあるのです。

戸松先生が、数年前の当山の暁天講座で、お父様(戸松政憲 師)が末期ガンで入院されていた時の事を話してくださったことがありました。何を話していいか会話の糸口が見つからず、お互い黙ったままだったけれど、それでも何日も病室に通われたそうです。お話しをお聞きして「そういうものかも知れないな」と思ったのを覚えています。そこでは沈黙の会話ともいうべき、お互いを思いやる心の交流があったのだろうと想像します。

真宗の教えでは、山にこもったり、瞑想したりというような特別な修行はありません。しかし親鸞聖人が、阿弥陀如来の摂取不捨(おさめとって捨てない)という本願のはたらきを読み解く中で、「摂」という字について「ものの逃ぐるを追わえとるなり」(人間が逃げようとしても、追いかけてつかまえる)と独特の見方をしておられます。
これは、私たちが日々経験している日常のことだと思うのです。私たち凡夫(ぼんぶ)は、みずから進んで仏法を求めたりはしません。しかし思いも掛けない出来事に遭遇したりして、嫌々ながらでも、自分自身と向き合わざるを得なくなる時が必ず来る、ということを表しているのだと私は受け止めています。つまりナムアミダブツと称えることで、私たちの日常の生活が仏道修行の現場となるということです。誰にでも実践できるというのは、そういう意味だと思うのです。

お念仏を称える生活とは、具体的にはナムアミダブツと口ずさむということですが、それは同時に、自分の思い通りにならなくても「誰とも代わってもらえない一度かぎりのあなたの人生を、悔いのないように生きていってもらいたい」、「私が私として生まれてきてよかったといえる生き方をしてほしい」という仏さま(大切な人)からの呼びかけとして聞きつつ、一歩一歩あゆんでいくということなんだと思います。

今年の暁天講座では、二人の先生より、あらためて大切な示唆を与えていただきました。
戸松 憲仁 先生。もうかれこれ15年以上も当山の暁天講座にご出講いただいています。
早朝でも、熱心に聴聞していただいています。Sさんより「皆さんに」と、コーヒーの差し入れもいただきました。

暁天講座が始まりました。

【期 日】平成29年7月21日(金)午前5:30~7:00
【法 話】浄光 法義(じょうこう のりよし) 師(岡崎市)

今年も恒例の夏の行事、暁天講座(ぎょうてんこうざ)が始まりました。暑いと言われる今年の夏も、この時間(朝5:30)ならばまだ涼しく、本堂の窓を開けて天井の扇風機を回せば心地よい風が通り、快適に聴聞をすることができました。眠いのは辛いですが・・・。(-_-;)

初日の講師は、今回初めて登場となる岡崎市の浄光法義師でした。浄光先生が本山の出張所である、岡崎教務所で勤めていた頃からの顔見知りではあったのですが、法話をお聞きするのは今回が初めてでした。早朝に聞くのぴったりのやさしい語りで、大事なことを分かりやすくお話しくださいました。
お話のテーマは「聴聞」でした。特別な修行を必要としない浄土真宗の生活実践の中でも、基本でありながら、「自分の聞き方はこれで良いのだろうか?」と今ひとつ自信が持てないのがこの仏法聴聞です。これは私たちの共通の悩みではないでしょうか。
 先生は、「聴」と「聞」と二つの文字の違いを、それぞれ「『聴』は、集中してしっかり聞く」、「『聞』は、耳こえてくる、楽に聞く」と大まかな違いを示して、「法話を聞く時の聞き方は、皆さんどちらだと思いますか?」と尋ねられ、「どちらも大事ですが、浄土真宗では、どちらかというと『聞』の方がふさわしいのではないでしょうか」と仰いました。

私も、お参りに来られる方から良くお聞きするのは「お話を聞いても、右から左へ抜けていってしまう」とか「本堂を出るとぜんぶ聞いたことを忘れてしまう」という言葉です。でも、学校と違ってテストをするわけではないので、法話は楽に聞き流せば良いのではないかとおっしゃいます。その時の自分の課題となっていることならば自然と耳にに入ってくるし、たとえ一度は忘れても、何回も聞くうちに「そう言えば、この前もそんなことをお説教で言われたな」と思い出すこともあります。なので忘れることを気にする必要はないのです。大事なのは「聞いて忘れない」ことではなくて、「忘れても忘れても、何回でも聞く」という習慣が身に付くことなのでしょう。

「お寺の本堂に入ると、今焚いているわけではないのに、お香の香りがしますね。これは何十年もの間、毎日のお勤めや法要の折にに焚かれた線香や沈香の香りが、柱や畳に染みこんでいるからです。このことを仏教では『薫習(くんじゅう)』といって、長い間に自然と仏法の考え方や習慣か身に付くことの喩えとして大事にされてきたんですよ。」と継続して聞法することの大事さを語ってくださいました。

現代は、何でも即効性を求め、何かと効果や効率が最優先されますが、目先のことばかりに目を奪われて、「木を見て森を見ず」ということになっているような気がします。自分の生きる意味や、私にとって本当の満足とは何かと考える時、もっと大きな視点で見ることも大事なのではないかと思いました。

先生ご自身、いろいろなご縁であちこちで法話をする機会が増えてきた時、身内の方から「法話をする前に、自分はちゃんと仏法を聞いているのか」と厳しい指摘をされたことがあって、思い悩んで外で法話をするのを何年か控えていた時期があったのだそうです。私自身もそうなのですが、仏法を聴聞するということが、知らず知らずのうちに、役に立つ話、例えば「これはあいつのことだ」と人を裁く手段として聞いてしまったり、また「この話は、自分が法話をする時に使えそうだな」と法話のネタ探しになってしまっていることがあります。自分の身で聞かないので、聴聞が聴聞になっていないということでしょう。ここは本当に注意すべき一点だと思います。
「法話にうなづかされるというのは、本当の自分に出遇わせてもらっているということなんですよ」という言葉が、よく聴聞の意味を表していると思いました。

ご自坊の本堂には、先生が小さい頃から「聴聞の心得」という貼り紙があったそうで、ご紹介くださいました。

《聴聞の心得》
この度のこの ご縁は、初事と思うべし。
この度のこの ご縁は、われ一人のためと思うべし。
この度のこの ご縁は、今生最後と思うべし。

「子どもの頃は何気なくこの言葉を見ていたのですが、自分で聴聞したり法話をさせてもらうようになったりするようになって、この言葉の重さを改めて感じられるようになりました。」と言われていたのが印象的でした。
浄光法義 先生。早朝に聞くのにぴったりの爽やかな印象のお話でした。
さすがに朝5:30は涼しいです。眠いのはやむを得ないですが。(-_-;)
「聴聞の心得」。大事な要点がコンパクトにまとめられています。

盆前清掃奉仕をしていただきました。

【期 日】平成29年7月16日(日) 朝8時~
【担 当】
役員さん。
北根の檀信徒のみなさん。

梅雨らしからぬ晴天の続いた7月中旬の第3日曜日。毎年恒例の“盆前清掃奉仕”をしていただきました。

おのおの鎌や草刈機を持ち寄って、1時間ほどの草刈りをしていただきました。この作業と並行して、和泉町にあるクリーンセンターへ軽トラックで刈り取った草を搬入してもらいます。この施設は、普段は平日しか稼働していませんが、毎月一度、第3日曜日だけゴミの搬入ができるきまりになっています。なので、毎月第3日曜日は市内一円の町内会や個人の皆さんも、この日を狙ってゴミを持ち込むので、どうしてもクリーンセンターが混雑し、搬入の受付の所で渋滞となってしまいます。そこで、今年は消防署の許可を取り、一部の草を焼却処分することにしました。軽トラックで運ぶ量もだいぶ少なくなって例年よりも早めに作業終了となりました。

ただ、朝8時と言ってもかなり暑いので、来年以降はもう少し作業開始を早めて欲しいという意見もありました。役員会で相談したいと思います。また、その他にもお気づきの点がありましたら、宝林寺までご連絡をお願いします。

ご協力いただいた皆さま、どうもありがとうございました。        合掌
とにかく暑い日でした。汗だくになりながらの作業ご苦労さまです。
広い墓地には、斜面になっている所もあります。
最後に役員さん達にお茶を配っていただきました。
おかげさまで、今年もお盆を迎えることができます。

第15組主催「大人の寺子屋」が開催されました。

【期 日】平成29年6月30日(金)午後6:30~9:00
【講 師】竹中慈祥 師(大阪 難波別院列座)

梅雨の合間で蒸し暑い一日となったこの日、第15組(この地域の真宗大谷派寺院のグループ)主催の「大人の寺子屋」の第3回目が宝林寺を会場に行われました。この学習会は、真宗入門講座という位置づけで毎年この時期に3回の講座を組内のお寺を順番に回りながら行われています。

今回は、座談会をメインにした同朋会(どうぼうかい)という独特の取り組みを実践しておられ、全国の大谷派寺院だけでなく、各方面より注目されている竹中先生をお招きして行う「雑談から始める座談会」という面白い企画でした。

普通、「お寺で、仏教をテーマに座談会をやりましょう」と言われるとたいていの人は尻込みをされると思います。「正解っぽいことを言わなければならない」、「変なことを言ったら恥をかくのではないか」というプレッシャーで息が詰まりそうな感じがするからではないでしょうか。

ところが、竹中先生の提唱する「雑談から始める座談会」は、そういう余計な心配をする必要がないように、その場での「お題」が紙に書いてあって、そこから展開する雑談こそ大事だというスタンスで、正解はなく、だれでも自由に思ったことを話せる場なので、とても和気あいあいとした雰囲気で話し合いをすることができました。

この日の座談のお題は、「夫が亡くなって1年。お寺さんはそろそろ納骨しなさいとおっしゃいますが、寂しくてそんな気になれません。お骨をお内仏(仏壇)の中に置いてはいけませんか?(62歳・女性)」という実際にあった質問を元に、参加者がおのおの思ったことを話すというものでした。私の参加していた班でも、30代でご主人を亡くされた方が4人のお子さんを育てながらどういうことを思いながら日々を過ごしてきたか話して下さったり、とかくご近所や親戚づきあいが希薄になりがちな現代の風潮に疑問を投げかける方があったりと、まさに話題が尽きないという感じで、あっという間に時間が過ぎていきました。

竹中先生によると、「雑談から始める座談会」は、話すこと・他の人に発言を聞いてもらうことによって「自分の存在を受け止めてもらえた」という満足感が得られることや、言葉で表現すること自体が、自分を浄化するはたらきがあること、また話題を共有することによって「私たちは仲間だ」という安心感を得られるなど、さまざまな効用があるので、誰もが自然とリラックスできて、また次回も参加したいとなるのだそうです。

座談の後は、皆さんから出された意見を受けての竹中先生の法話でしたが、関西弁の軽妙な語り口や、座談によって場が暖まっていることもあって、時々笑い声が聞こえるような楽しい雰囲気となりました。

現在、仏教各宗派において、坐禅や写経、御朱印あつめなど参加型の企画がとても人気を博しています。目の肥えた消費者(?)には、受け身ではなく、参加型の方が満足度が高いということでしょう。「お寺に足を運んでもらうにはどうしたら良いか?」ということを考えた時、一つの方向性として正しいと思います。しかし聞法を重んじる真宗の伝統的な教えの中には、これらの自力修行的な要素がなく、形だけまねるのもちょっとどうかと思っていました。

竹中先生の取り組んでおられる今回のような参加型の聞法という方法は、私もそうでしたが、多くの人にとって、きっと満足度が高いと思われるので、今後の宝林寺の企画の中にも取り入れていくと楽しそうだなぁと感じました。また皆さんのご意見もお聞きしたいです。
竹中慈祥先生。関西弁の軽妙な語り口です。
「何を話しても良い」というのは、参加者にとっても、司会者にとっても気が楽です。
座談会は、メンバーが6人までだと比較的ホンネで話ができるのだそうです。

おみがき奉仕をしていただきました。

【期 日】平成29年6月18日(日)午前8:00~9:00
【担 当】婦人会役員・南根の連絡員の皆さん

これから始まる夏の行事に向けて、本堂の仏具のおみがき奉仕をしていただきました。
担当の皆さん、どうもありがとうございました。m(_ _)m

絶家無縁経法要が勤まりました。

【期 日】平成29年6月13日(火)午前9:30~・午後1:15~
【講 師】安藤智彦 師(碧南市 安専寺住職)

爽やかな晴天となったこの日、絶家無縁経法要が勤まりました。この法要は戦前から続いており、永代経や納骨堂法要と違って、関係者に直接ご案内をする行事ではないので参詣者は少なめですが、町内の無縁となった家の方々を弔うという仏教行事として意義深い催しだと思います。講師は、碧南市 安専寺住職の安藤智彦さんにお願いし、午前午後にわたってご法話をいただきました。

安藤先生は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」という、師匠の法然上人から聞かされた言葉を、親鸞聖人は最晩年になるまで大事にしておられたことを紹介され、私たちが本当に「生まれてきてよかった」と感じられるには、何を大事にしていくべきか共に考えるよい機会となりました。

ここで言う「浄土宗」は、京都の知恩院を本山とする現在の浄土宗という教団のことではなくて。「浄土(誰もが一所で出会える世界)を宗(依りどころ)として生活する」という意味です。

また「愚者」とは「愚か者」ということですが、知識や教養のあるなしを問題にしているのではなくて、誰もが生まれながらに持っている傾向、たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ってしまったり、自分の都合の良いようにふるまって他者を傷つけ、悲しませてしまうという「愚かさ」のことです。「愚者になる」とは、そのような自分の姿をよく知るということです。そして自分自身の姿に目を背けることなく、愚者の自覚を持つ者こそが、真を生きる者であるということを親鸞聖人は教えてくださっているのです。

しかし、人はなかなか自分の愚かさを認めることができませんし、それぞれプライドをもって生きているので、「認める」ということは並大抵の事ではありません。しかし、「愚者になることによって開かれてくる生き方があるんだよ」というのが親鸞聖人が伝えたかったことだと思います。

巷を騒がせるさまざまなニュースも、人間の生き様を映す鏡だといえるかもしれません。私たちは、お互い間違いを犯す愚かさを持った人間です。だからこそ、お互いを敬うことが大切なのではないでしょうか。安藤先生が言っておられた「お念仏の教えは、人を尊敬する教えです」という言葉の重みを感じます。
安藤智彦 先生  私(知見)の先輩でもあります。
午前のお話では、ご自身の亡くなったお母さんのことも話して下さいました。
本山の発行する『同朋新聞』の記事を参照しているところです。

除草剤散布と樹木の焼却作業を行いました。

【期 日】平成29年6月4日(日)朝7:00~

爽やかな晴天となったこの日、宝林寺の役員さん達に、勤労奉仕で除草剤散布をしていただきました。広大な宝林寺の敷地のうち、本堂や庫裏のある境内地は、前住職が日々の草刈りや落ち葉拾いなどの清掃作業を一人でやってくださっています。
しかし隣接する墓地については、とても手が回らず、年に一度、町内の墓地利用者の皆さんに草刈りの勤労奉仕をお願いしています。刈り取った草は、以前はその場で焼却することもできたのですが、現在は軽トラックに積んで、和泉町にある市の焼却場に運び処分しています。延べで軽トラック10台分以上の膨大な量となります。
そこで、少しでも草の量を減らす意味もあって、毎年この時期に役員さん達にお願いして除草剤散布をしています。町内会から噴霧器を借りてきて、巨大なタンクに除草剤を希釈して、エンジンの力で薬剤をまきます。毎年のことなので、みんな慣れた手つきでスムーズに作業が行われます。
さらに今年は、数年前に伐採した巨木が、墓地の南側の空き地に放置してあったのですが、見た目も悪いし、シロアリが繁殖しても厄介だということで、この日に同時進行で焼却作業もしていただきました。全体の量からすると2,3割といったところですが、半日くらいかけて燃やしていただきました。今年は春先にも剪定した樹木の焼却作業をしていただきましたが、今回は木の大きさが、けた違いです。
あまりにも大きな木なので、業者にチェーンソーなどで輪切りにしてもらったのですが、それでも太いものは、500㎏もあるかたまりもあります。さすがにこれは燃やせないので,最終的には有料で木のチップに加工する処分場に持って行くしか今のところ処分の方法が見つかりません。かなりの処分費用がかかりそうなので、とても頭が痛いことです。どなたかこの巨大な丸太、ほしい方ありませんか?
軽トラックの荷台に載っているのが噴霧器です。キャタピラがついているので自走も可能ですが、荷台に載せたまま作業を行います。今回は270ℓ(ドラム缶1本強)ほど散布してもらいました。
噴霧器のヘッド部分は、お茶農家の犬塚さんが持ってきてくれたスペシャル仕様です。薬剤を噴射するノズルが幾つもついていて、作業効率がとても良いです。
かなりの量です。手前の比較的細いものだけを今回は焼却処分しました。通報されるとややこしいので、消防には届出済です。
人間の太ももくらいある木を何本も焼却していただきました。ちょうど良い風もあって予想以上にスムーズに作業ができました。役員の皆さん、お疲れさまでした。

第40回 児童夏のつどい (主催:岡崎教区)

【期 日】平成28年8月17日~19日
【会 場】岡崎市 三河別院
【講 師】酒井義一 師(東京 存明寺住職)

夏休み終盤、お盆明けの2泊3日で第40回児童夏のつどいが開かれました。みんなで朝夕のお勤めをしたり、先生のお話を聞いたり、キャンプファイヤー(今年はキャンドルファイヤー)をして過ごしました。宝林寺からも、5名の子が参加し、私(坊守)も、スタッフとして、食事の準備などのお手伝いをしてきました。

今年の講師の先生は、東京の存明寺住職の酒井義一先生ということもあり、どんなお話が聞けるか、楽しみに参加したのですが、期待以上というか、今年のつどいはいつもと違いました。

まず、2時からの開会式が終わって、夕食の仕込みのため、調理場へ行くと、スタッフに混じって、酒井先生が玉ねぎの皮むきをしていました。思わず、「先生、すごく手際がいいですね」と声をかけると、「うちで子ども食堂をやっていて、玉ねぎの皮むきは僕の担当なんですよ」とおっしゃいました。食事担当は裏方の仕事なので、講師の先生と直接話すことがほとんどなく終わってしまう年も多かったので、酒井先生の人柄にすっかり魅了されてしまいました。

先生は、お話の時間にも、「自分勝手な思い込みを捨て、ひとりの同じ人間として、相手とていねいに出会うことが大切だよ」と言ってみえたように思います。また、3日目の最後には、「この2泊3日で、お互いが、少しずつしゃべって、ふざけることもできるようになって、ぽかぽかあったかくなる、そんな触れ合いが持てたんじゃないかな。恩返しという言葉に似た言葉として、恩送りという言葉がある。参加者だった子ども達が高校生やおとなになって、スタッフとして「夏のつどい」に関わるために、毎年夏にはここへ集まってくる。みんな「ほとけの子」でひとつになれる。すてたもんじゃない、大事にしなくちゃいけない。次のスタッフは君たちだ!」と、子ども達に話してくださいました。

閉会式の後に、私が先生に「3日間ありがとうございました」とお礼を言うと、「だれかが寄せ書きに今年の食事は去年よりおいしかった!って書いてたよ。きづいた?」とおっしゃられて、びっくり!とてもうれしかったです。(葉)

外部リンク:岡崎教区児童教化連盟 
スタッフのお兄さんお姉さんとご対面!緊張する~!
酒井義一先生。抜群の存在感!!
オリエンテーリングのチェックポイント 空気砲です
お疲れさま~。みんないい笑顔!!

平和を考えるお盆の集い

【期 日】2016年8月15日19:00~21:00
【会 場】宝林寺境内

お盆の終盤のこの日、「平和を考えるお盆の集い」を開催しました。この催しは、昨年から始めた新しい行事です。ある檀徒の方から「子どもさん達と一緒に使って下さい」と大量の花火をいただいたことから、お盆のこの時期に合わせて呼びかけをしています。今年は、さらに別の方からも花火を提供していただき、昨年以上にセレブ感のある花火大会となり、同じ時刻に行われていた米津の川まつりの花火大会にも劣らない豪華さでした。(笑)

この時期は、広島・長崎の原爆投下の日とも近く、特に8/15は終戦記念日でもあることから、ただ集まって花火を楽しむだけでなく、戦争と平和について考えるきっかけにしたいと思い、関連する動画を観てもらっています。今年は『戦争のつくりかた』『9条を抱きしめて』の2本を上映しました。


日本の安倍政権になってからの不穏な空気というのは、多くの方が感じておられると思います。またイギリスやアメリカでも極端な保守主義の勢力が台頭するなど、きな臭い空気が世界を覆いつつあるように感じます。ひとたび戦争状態になったら、引き返すのは容易ではありません。


子や孫に、再び戦争の悲劇を味わわせることのないよう、家庭や友だち同士の間でも、憲法改正の問題や安全保障問題について、もっと話題にして、政府や報道に騙されないよう注意深く見守っていく必要を感じます。
正信偈のおつとめ
どんな年齢層でも楽しめるのが花火の魅力です。
大物の花火はお父さんに点火してもらいます。
いいお盆になりました。

納骨堂物故者追弔会

【期 日】平成28年8月4日(木)午前9:30~ 午後1:30~
【講 師】小 谷 香 示 師 (西尾市 明栄寺住 職)

8 月らしい暑さとなったこの日、納骨堂物故者追弔会が勤まりました。昨年に続き、法話は小谷香示先生にお願いしました。先生ご自身、現在病気療養中ということで、大きな声が出ないといいながらも、熱のこもったお話をしていただきました。
先生はまず、「仏性を知らんと思わば まさに時節因縁を観ずべし」(涅槃経)と板書し、「仏性(ぶっしょう)とは、目覚める種と言っていいでしょう。ほんとうの生き方がしたい、ほんとうのことを聞きたいということです。普段は目立たないし、隠れているようだけれども、人間は皆こういうものを持っているんです。そのことに気がつくのは、不幸に見舞われたり、病気や行き詰まりがきっかけとなる場合が多いんです。」といわれ、ご自身が病気になって改めて気がついたことなどをお話くださいました。その中で、悪性腫瘍のため右足を切断し、32歳の若さで亡くなられた医師、井村和清さんの『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社 1980年) に収められている詩を紹介していただきました。

「あたりまえ」
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、 そして又朝が来る
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ 

「朝、目が覚めて居間に行くと、息子のお嫁さんが、私の顔を見ると『お父さん、昨日はよく眠れた?』、『トイレは何回行ったの?』などと必ず声を掛けてくれるんです。私は『大丈夫だよ、ありがとう』と言葉を返すんです。これがうれしくてねぇ。病気になったおかげで、お嫁さんとの距離が一気に近くなったようで、これは予想外のよろこびでした」と言っておられたのが印象的でした。

声明会の皆さん。毎月2回。第2・第4木曜日におつとめの稽古をしています。
小谷香示先生。熱のこもったお話をしていただきました。
宝林寺の飼い猫さくら。法話の途中でセミを追いかけて本堂に乱入してくるというハプニングがありました。

子どもおつとめ教室 お楽しみ会

【期 日】平成28年7月29日(金)あさ10時~ひる1時ごろ

おつとめ教室の最終日は、子どもたちお待ちかねの「お楽しみ会」です。朝10時にあつまり、おつとめと住職のお話を聞いた後はゲーム大会となります。今年は例年に比べて参加者が多かったのでとても盛り上がりました。チーム対抗で、空き缶積みリレー、境内で手作りのお宝カードを使っての宝探しなどで遊びました。

お昼はお非時場(ひじば)に移動してカレーライスのお斎(食事)です。ゲームでたっぷり遊んだ後でお腹がすいた子どもたちは、競い合っておかわりをするので、4升炊いたご飯もあっという間になくなってしまいました。後で聞いてみたら4,5回おかわりした子が7,8人もいました。やっぱりみんなで一緒にたべると、余計に食がすすむようです。

最後に、本堂で恩徳讃(おんどくさん)を歌ったあと、正面の階段のところで、かき氷を堪能しました。あれだけカレーを食べた後なのに、かき氷のおかわりの行列ができていました。手動のかき氷器なので作る方は汗だくです。

50人を越える子ども達が、満足げに帰って行く後ろ姿を見て、準備は大変ですが、なんともいえない達成感を感じることができました。

また、冬休みにも子どもおつとめ教室、最終日には子供報恩講を勤めますので、ぜひ参加してくださいね!!
絵本を題材にしてお話をしました。
グループに分かれて「キャッチ!」
みんなで一緒に食べると、おいしさも倍増です。
かき氷のおかわりに長蛇の列

夏休み子どもおつとめ教室

【期 日】平成28年7月25~28日
【会 場】宝林寺 本堂

恒例の「夏休み子どもおつとめ教室」が始まりました。今年は他の行事との関係で練習日は少なめですが、40名ほどの子ども達が参加してくれました。今年はじめて参加する子も多く、最初は少し緊張気味でしたが、おつとめ練習の後、みんなでフルーツバスケットをした時には元気な笑顔で走り回っていました。

第37回 暁天講座

【期 日】平成28年7月21日(木)
【講 師】小栗貫次 師(西尾市 玉照寺若院) 

3日連続の暁天講座。初日の講師は、西尾市玉照寺若院の小栗貫次さんです。
今まで法要の役僧さんとしては何度かお願いしたことがありましたが、今回はじめて法話をお願いしました。

印象に残ったお話の一部をご紹介します。


エイプリルフールに
小栗さんが、友だちと先輩と3人で何気ない会話をしていた時、「この間、小学校5年生の娘から、突然携帯に電話がかかってきて、『お父さん、この間買っておいた宝くじが当たってたよ!』と言われたんだ」と友だちが話されたそうです。「えーっ、本当!?」と大喜びしていたら、「お父さん、今日はエイプリルフールだよ」といわれ、ぬか喜びしたバツの悪さもあって、「本当に腹が立ったわ」と。

先輩は、その話を聞いて「何か、羨ましいなぁ」とポツリと言いました。考えてみると、小学5年生の女の子といえば、徐々に父親と距離を置きはじめる時期です。わざわざ電話をかけてきて、エイプリルフールのたわいもないないやりとりができる親子の関係がとても温かくほほ笑ましい、というようなことを言われたそうです。確かに子どもはどんどん大きくなっていくので、こういう会話ができるのも今のうちだけかもしれません。うちの娘も同じくらいなので、なんとなく分かります。


この話には後日談があって、次の年には同じように、先ほどの娘の妹がエイプリルフールに電話をかけてきたそうです。「わかってるよ。エイプリルフールでしょ」と応えたら、電話の向こうで「お母さ~ん、もうバレちゃってるよ」と妹の声。去年の宝くじの話も、実は奥さんが子どもたちと一緒に作戦を立てて、お父さんをびっくりさせようとしていたらしいのです。
小栗さんは、「うちも、もし子どもが生まれたら、こういう温かい家族になりたいなぁ」と思ったそうです。何気ない日常の一コマですが、家族がお互いを思うエピソードに、尊いものを感じたということでした。

「お寺の本堂の内陣やお内仏のお飾りが金色なのは、この「尊さ」ということを、光り輝いているということで金色で表しているんです。そして光り輝くようなことと出会った時、実は、私は尊いものを求めていたんだということに気づかされるんです。」と静かにいわれました。

今日のお話をお聞きして、私は日ごろ、私のことを気にかけ、さりげなく心遣いをしてくれている人がいることを、当たり前にしてしまっているかもしれないと感じました。こういう事は、きっと人から指摘されても腹が立つし、お話を聞いて、自分の姿を気づかせてもらうしかないなぁと改めて思います。 南無阿弥陀仏
小栗貫次 師 早朝に聞くのにぴったりの爽やかなお話でした。

盆前清掃奉仕

【期 日】7月17日 午前8時~9時半
【担 当】南根・西根の壇信徒の皆さん

草刈にはちょうど良い曇りとなったこの日、南根・西根の壇信徒の皆さんで墓地の草刈りをしていただきました。草刈りに先だって役員さんに除草剤を散布していただいており、ある程度、草の量は減っていたものの、大勢でなければこれだけ広範囲の草刈りはできません。これで気持ちよくお盆も迎えられそうです。
無縁墓の周辺はどうしても荒れてしまいます。
大勢でなければとても全体の草刈りはできません。
広場もすっきりしてクルマも停めやすそうです。
草刈機が大活躍

15組主催の真宗講座が開催されました。

【期 日】7月8日(金) 午前9時~12時
【講 師】藤元雅文 師 (大谷大学講師)

静かな口調の中にも、ひたむきに道を求める情熱が感じられるお話でした。特に印象に残ったところをご紹介します。


1年ぶりに訪れたある檀家さん宅のお盆参りで、そこの奥さんに「ぜひご院さんに聞いてもらいたいことがある」といわれました。奥さんは夫の両親の介護と看取り、子育ても終わって「やっとこれからが私の時間だ」と思った矢先、乳がんが発見されたのでした。「何も悪いことをしていないのに、何で私が」、「よりによってどうしてこのタイミングで」との思いが頭の中をめぐり、「神も仏もないものか」と思ったそうです。

でも、聞いて欲しかったのはそのことではなくて、がんセンターでの治療が始まったおりに出会った闘病仲間の友達についてのことでした。

その友達は、奥さんが手術を受けている間じゅう、ずっと病室で無事に済むようにと祈ってくれていたのでした。実はその彼女も奥さんと同じ乳がんで、しかも余命3ヶ月と宣告されていたのだそうです。

そのことを後で聞いた奥さんは、「私は自分が恥ずかしくなりました。もし私が逆の立場だったら、自分よりも病状の軽い人に対して、彼女と同じように祈ることができただろうか。口が裂けてもがんになって良かったなんていえないけれども、がんになったおかげで、私は人生で一番たいせつなことを教えられたような気がします」とおっしゃったそうです。


「私の救いとは何か」は誰もがいつか直面せざるを得ないテーマですが、その一つの解決の糸口が、「こんな私にも寄り添ってくれる人がいる」という驚きであると。「私の思い通りに病気が治る」、「困った状況が改善する」ということではなく「ただ寄り添う」というそれだけのことが、人が人として生きていく上でとても大きな力になっているだけでなく、生き方の方向性まで変えてしまうこともあるのだと改めて教えられました。



15組各寺より多くの参加者がありました。
講師の藤元雅文先生。道を求めるひたむきさが印象的でした。

おみがき奉仕

【期 日】7月3日(日)午前8:00~9:00
【担 当】婦人会役員さん、西根の連絡員さん

早朝よりおみがき奉仕ありがとうございました。これで心おきなく夏の行事を迎えられます。
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