大谷専修学院 竹中智秀院長 【歎異抄講義】㉑
学院祭も終わり、学院生活もいよいよ後半である。卒業できる・できないは、まだ誰も決まっていない。だから声を掛けあって一人も脱落しないで一緒に卒業の日を迎えたい。
そこで卒業できれば、皆は、1,自分の寺へすぐ帰って A,寺の仕事に専念してやっていく。 B,兼職しながらやっていく。 2,自分の寺ではなく何処かの寺、あるいは宗務所・別院等でやっていく。3,一般の就職をし、やがて、 A,いつか自分の寺へ帰ってやっていく。 B,縁があれば何処かの寺へ入寺してやってゆく。 4,進学する。A,大学。B,別科。C,その他。どういうふうに考えているだろうか。ミーティングの時に話し合ってほしい。
世間は不況で、就職活動が思わしくないようだ。皆も苦労することだろう。しかし現に今、学院に身を置いている事実がある。このことは真宗精神を体得して、具体的には、1,僧(=仏弟子)となって仕事をしていくことを願っているからである。そこには、「何をなすか」という、一生を通しての仕事と生活との問題があってのことである。
それと同時に、2,仏弟子(=僧)として、どのような生活をすることになっても、いつでも本願念仏の仏法によって生きる念仏者になりたいと願っているからである。そこには「如何になすか」という、どう生きることが真実に生きることになるかを問うということがあってのことである。
今日まで学院生活をして来て、あらためてなぜ自分自身が、今ここに身を置いているのかを問う時、自分自身の願いが明らかになり、その願いを実現する場となり生活となっているだろうか。自問自答もし、お互いに問題にしあってほしい。
A、B両君のことが思い出される。 A君は小学生の時から学校の先生に憧れ、教師になるために苦労して大学を卒業した。しかし先生となって仕事をする現場が決まらないまま、スーパーの店員として働きつづけた。スーパーで仕事をしながら、「ここではない。こういう私は私の願った私ではない」と言いながら、現にいまスーパーで仕事をしていながら、その自分を自分として認められないで嫌い、拒否しつづけた。そのため、自分が自分になれなくなり、虚しさの中で遂に自殺してしまった。
B君は、「どういう仕事をしているのか」と聞いた時、「工場でベルトコンベアーに乗って流れてくる部品に手を加える仕事をしている」とのことだった。その時、「ロボットの方がまともな仕事をしています」と言い、「仕事中は人間であることをやめて物になっているんです」とも言った。また「仕事が終わってから、人間であることを取り戻そうとすると、どうしても酒とかギャンブルとか等々の快楽を求めてしまう。それは身体が要求するんです」とも言った。結局、人間であることをやめて手に入れた金が、あっという間に無くなり、生活を荒れさせてしまっていた。
A,B両君に共通しているのは、1,今・ここの自分自身を自分とできなかったことである。そのことからA君は、2,自分自身を直接殺してしまい、B君は、3,間接に自分自身を殺していったことである。現代は、このA君B君が満ち溢れている時代である。それは、A君B君の個人の問題ではなく、社会構造そのものの問題でもある。
しかし、この自分自身を自分とできないと、結局は自分で自分を殺してしまう。この問題をどう解決できるのか。我々が本願念仏の仏法によって明らかにしようとしている真宗精神には、この問題を解決する力がある。だから我々の学びは単に個人的なことではない。彼等の救いの問題とも直結している。
我々は生きることを深く問題にする時、いつでも「何をなすか」という問題と、「如何になすか」という問題があることを知る。「何をなすか」とは、「世間の中で、どういう仕事をして生活していくのか」この問題と関係してくる。その時は必ず、1,「あなたは何ができるか」とその専門を問い、技術を問い、さらに、2,「資格があるか」とその資格を問い、さらに、3,「経験年数は」とその熟練度を問われることになる。それによって評価が決まり、その現場で間に合う・間に合わないを云々しながら、必要とするとかしないとかが決められていく。しかもそのことによって、その者の人間としての存在全体が否定されてしまうことすらある。それこそ人権に関わる差別問題である。
そのような世間の中で生活をしていると、自分自身までが、そのように思ってしまって、自分自身に対し、他者に対してそのように徹底した差別を加えてしまうことになってゆく。それが自分自身を殺していくことになる。
かつて小学生の意識調査の中で、「死にたいと思ったことがあるか」の問いに、32%の小学生が「死にたいと思ったことがある」と答えていた。その背景に「僕がいてもいなくても同じではないか」という思いがあるという。小学生たちは、自分自身の存在理由、存在根拠が成り立たないのである。そのため追い詰められた思いの中で「死にたい」と思っているのである。ただ世間の中で、間に合う者だけがやっと存在理由、存在根拠を与えられていくという、そういう社会構造が極端に進んできている。
そういう世間の中で、「何をなすか」だけが全てではなく、「如何になすか」という我々の生きることに関して、重大な意味を持つ生き方があることを問い続ける伝統がある。それが本願念仏の仏法に帰依して生きる念仏者としての生き方である。
それは、「我は如来を信ず」と言い切って生きる生き方である。如来はこの私の存在を必要とされている。そのことを信ずるのである。そのことが、どのような状況の中にあっても、自分をも、また他者をも見捨てないで、差別しないで尊重して共存しようとする生き方を開いていくことになる。
学院生活も、後半を迎えるにあたって、一人ひとりがあらためてどうなりたいと、どうしたいと願っているのか、その願いをはっきりさせるためにも、1,「何をなすか」について、僧(=仏弟子)として、2,「如何になすか」仏弟子(=僧)としてどう決定できているか。また決定できないのなら、なぜ決定できないのか、そこにどういう問題があるのかを確認し、その上で、比べず、焦らず、諦めず、自分らしく足を上げて一歩一歩踏み出せるよう自己点検し、相互点検をしてほしい。
《平成6年(1994年)11月14日》